2010年4月13日火曜日

教師適齢期

教育は息の長い仕事です。しかも一人一人の旬が短い。小学校の時にどのような教師と巡り会うか、中学は、高校は、教師との巡り会いはとても大切ですが、孟母三遷のような訳にはいきません。博打になっても仕方がないかと諦めが多いのではと思います。子供の年齢・性格で適した教師像は変わります。人格形成に大切な小学校の教師には30から50に年齢制限を設けるべきでしょう。親より若い教師に子供を教育させるのは間違いです。祖父母の年齢の教師ではこれまた体力が着いて行けない。30前は大学で教鞭を執ること。大学生の年齢になれば教師に曲げられる恐れも少なくなっています。

教育制度改革の揺れ戻しが話題ですが、ゆとり教育で育てられた教師が教鞭を執って育てる子供は、どう育つか。90年代のゆとり教育を経験した小学生が育ち教育現場の最前線に立ちます。今更あのゆとり教育は、と言っても育ってしまった大人は子供には還れません。

定年まで勤めてさようならの公務員に教育の根幹を任せるのは間違いだけど、政治家がもっと長期的な目を養わないと。手当金をばらまく政治家に投票している人達にも責任は有るかもです。

2010年4月9日金曜日

合掌

友人が永眠しました。
出会ってから33年が経ちます。時々道が交差することもありましたがほとんどは付かず離れずでした。
工場に配属の同期です。同じレコード関連ですが、彼は原材料、私は検査機、が仕事でした。
入社当時、仕事以外は何でも一緒、放課後の遊びも晩飯も、洗濯機を持っていた彼のところに洗濯物を持って厄介になりました。
終業ベルを待ってタイムレコーダーをガチャン、で会社を飛び出してスケボーに。
朝私を起こすのも彼の役目でした。

VHDを始めて半年たったら今度はCDをやると突然の進路変更です。
原盤を製作する為の準備で彼がいろいろな装置をでっち上げました。
私は規格書を読んで測定機を作るのが担当でした。
本社には巨頭が沢山いましたが、
皆さんはLDの仕事が忙しくCDに関しては勝手にやらせてもらった感じです。
82年の発売後、手書きのスタンパー刻印の代わりのプリンターを作ることになり、メカの設計を彼が行い
御殿場の工場にも納入しました。同じ装置に携わった少ない一こまです。
その後米国で製造することになりそのための準備でてんやわんやの忙しさに。
彼は7人の赴任者の一員で現地にアパートを借りました。
私は出張で長逗留、一緒にナイアガラ、ディズニーワールド、ラスベガス等々。
生まれたばかりの赤ん坊を連れて奥さんが空港に到着したのを出迎えました。
多分その後息子さんに会ったのは先日の病院でになります。
85年テッドターナーの買収騒ぎがあり、資金調達の為に米国の工場は日本の会社に買われました。
居残ったのは2人、その他は日本に帰って、今度は欧州の工場の立ち上げに関わりました。
彼が日本で借りていた住宅を私が引き継いで借りました。
米国帰任で持ってきた大きなテーブル、椅子付きを餞別代わりに買い取りました。
89年インラインのCD製造装置を作りました、彼も担当するはずだったのですが、
帰任した彼はマスタリングのインライン装置の方に携わります。
翌年90年、最初の発病で入院しました。
93年の子会社設立から同じ穴の狢になりました。
遊び仲間復活です。地球1周の出張も一緒の時がありました。
サンフランシスコに出張したときレンタカーでヨセミテ経由でロスまでドライブしました。
後部座席で楽をして、そのときの拾った松ぼっくりが残っています。
それ以来何度もの危機を乗り越えて今に至りますから今度も大丈夫と思っていたのですが。